おとなの伝言ゲーム
7/30/2007
「コミュニケーション」とは何ですか?と聞かれても、その答えは人によってマチマチだろう。
「自分の考えを相手に伝えることです」と言う人もいれば「報/連/相です」と言う人もいれば「飲みニケーションこそがコミュニケーションだ」という人もいるだろう。
これほど人によって解釈がさまざまな言葉もそうそうない。でも、この厄介な言葉は、いつでもどこでも便利に使われる。
求人サイトをみてみれば、「我が社に必要なのはコミュニケーション能力の高い人材です」「実務経験よりコミュニケーション能力を重視します」の言葉が並ぶし、履歴書をみれば「コミュニケーション能力を生かして、業務に取り組みたい」とのアピールが目立つ。企業のセールストークをみれば、高いコミュニケーション能力を売りにしているところもあり、教育のトレンドもコミュニケーション能力を育む方向に向かっているようだ。
これらを鵜呑みにすると、世の中には、コミュニケーションを得意とした人がワンサといるようである。
にも関わらず、実際はコミュニケーションがスムーズに行かないことが多い。
同僚、上司はもちろん、家族や友人にさえ、ちゃんと真意が伝わらないのはなぜだろう。
考えられることは2つ。
1つ目は、コミュニケーションが確立された科学分野ではないから。
科学というものは、再現可能で、後で検証も可能なもののことを言う。しかし、コミュニケーションは、人間の知覚や認識の問題であって、伝達しようと脳で考えたものを、後で目に見える形で容易に再現することができない。再現できないから検証もできない。
よって、コミュニケーションがなんであるかを漠然と捉えることはできても、個々の意思や知覚や認識を科学的に立証することができないため、人によってその解釈はさまざまだし、感じ方が違うのだから、説明の仕方も違って仕方ない。なので、思った通りには伝わらないし、受け止めてもらえない。
コミュニケーション理論というような、科学チックなものもあるけれど、この場合のコミュニケーションはデータ転送の事を言っているので、あるアルゴリズムやアーキテクチャの上に成り立っており、こちらは再現可能な点で異なる。
2つ目は、コンテンツとコンテキストのギャップである。
コンテンツは文字通りコンテンツ、内容。コンテキストとは文脈、背景と訳されるが、こちらには様々且つ膨大な情報が含まれる。通常、誰かと会話したりやり取りする時、コンテンツが重視される。会話の中で、コンテンツ自体は理解できても、それが腹に落ちるかどうかはコンテキストにかかっていて、コンテキストまで情報として提供されなければ、コンテンツ自体も意味がなくなってしまうことがある。
例えば、
「ゼリーを買って来て欲しい」(コンテンツ)と頼まれたとする。
なるほど、ゼリーを買ってくればいいんだな、と思ってコンビニに行くと、ゼリーが売り切れだった。ゼリーがなかったから買わない、というのも正しい選択ではあるが、自分で買いに行けばいいのになぜ自分にゼリーを買って来て欲しいと頼んだのかという背景を知っていたら、別の行動ができるかもしれない。
高熱が出て外出することができず、冷たくてのどごしのいい物が食べたかったから、買って来て欲しいと頼んだのだ、そういう背景(コンテキスト)を知っていれば、ゼリーはなかったけど、スポーツドリンクを買って行こう、ゼリーの代わりにアイスはどうだろうか?と考えることができたはずである。
「ゼリーを買ってくる」という行動を取り巻く状況や情報は様々で、含蓄があるのである。でも、その含蓄部分、コンテキスト部分を省略して会話することが多々ある。
こうして、コミュニケーションロス(コミュニケーションの損失)が起こる。
1対1のコミュニケーションにおいてでさえ、完璧に物事を伝えるのは難しいのに、複数の人間で情報を共有するとなると、さらに大変な労力が必要になる。
会社組織などでは、社長から部長、部長から課長、課長から係長・・・というようなコミュニケーションの伝達が行われるが、各人が上からの情報を完全に腑に落ちた状態で受け取るならまだしも、少しでも曖昧な状態で受け取ると、自分の記憶や経験を元にコンテキストを再構築してしまい、その不正確さが加わった情報を下に伝達することになる。こうなると、完全に、究極のおとなの伝言ゲームとなってしまう。悪意がなくても起こることなのである。
つまり、コミュニケーションとは、コンテンツとコンテキストをバランスよく最適に組み合わせて伝えることであり、この二つのギャップを埋められる能力を持つ人が、コミュニケーション能力の高い人だと言えるだろう。
子供時代の伝言ゲームは楽しい遊びだったけれど、おとなの伝言ゲームはシャレでは済まされない。